Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

ムラ的共同体

相撲協会理事選出の件に日本的ムラ的共同体の縮図を見せつけられる。
http://diamond.jp/series/izumiya02/10010/

西洋の社会制度は、「個人」の独立性を基盤にしているため、その利害関係等を調整するために、法や契約というものを必要とし、会議・交渉などの話し合いが不可決になっています。それが「社会」というものの内容なのです。

良くも悪くも契約社会といわれる所以。但しこのような現状には多くの血を流し多民族の争いを経て辿り着いたという歴史的帰結もある。

 しかし、この「ムラ的共同体」においては、「同質性」が基盤になっているため、「うち」の「同質性」を乱した者への制裁を主とする掟のようなものはあっても、西洋的な法や契約というものが本質的には重要視されていません。また、話し合いのようなものがあるにしても、その内実は「タテ社会」の力学が支配した、談合的なものなのです。

これは未だに日本社会がベースにしていること。出発点が同質性の共有だから法を犯しているわけでもないのに列を乱すようなことへの寛容さは持ち得ない。そして厄介なのはその同質性の共有は契約のように明示化されるものではなく暗黙の了解として代々受け継がれるものだから、他者にとっては空気を読むことから入らないと何が起きているのか分からない。

 ですから、「社会」においては、法に反した行為が「罪」として法によって裁かれるのに対し、「ムラ的共同体」では「同質性」を乱した者を、見せしめ的に風評で裁いたり、村八分的に排除したりするのです。

一門の決めた投票先を自分の一存で変えることはムラ的共同体の本質、同質性への反旗であり、秩序を乱す大罪となる。

 また、そのような人がいかにして赦免されるかという点でも「社会」と「ムラ的共同体」では大きな違いがあります。
「社会」では法に定められた刑に服することが不可欠なのですが、「ムラ的共同体」の場合は、「世間」に対して十分に頭を下げることが大切で、それによって「世間」の気が済み「ほとぼりが冷める」ことの方が重要視されるのです。

結果、親方としてはムラ的共同体からの離脱を覚悟してしか行動に起こすことは出来なかったということか。
上記のことは件の大相撲協会理事選挙に関してだが、これは日本の社会の至るところで起きていることだろう。参政権問題も民族主義的な拒否反応もあろうが、多くの人は漠然と同質性の乱れに対する懸念が背景にあるのではなかろうか。
と考える一方で、最近の経済的な不安は、その拠りどころたるムラ的共同体が経済的な側面からも瓦解しつつあることへの不安があるように思う。すでに70年代、80年代から家族、地域のコミュニティーの分解が言われていたがついには日本の至るところでムラ的共同体が崩れ去ろうとしている。そのことへの強い不安、拒否反応が出てきているように思う。