Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

自己決定権

NHKがこのところニュースウォッチ9やNHK特集で取り上げている無縁社会は色々な波紋を呼んでいるようだ。
その中のひとつがこちら。
「孤独死」はそんなに大きな問題か:日経ビジネスオンライン
NHKのさも「有縁社会」に回帰を望むような、現状の「無縁社会」への恐怖心を煽るような内容には確かに辟易とする感もある。ニュースウォッチ9の特集でここ数回のものはどうなのかと首を傾げたくなるものだった。昨晩、9日の共同墓など無縁社会とどう繋がるのか納得し難かったし、共同墓の周りにきな臭いモノを感じ、もっと突っ込んだ報道が欲しかった。
ただ、上記のWEBで「自己決定権」云々と出てくるところには違和感を感じる。

そもそも、移動の自由がなく、女性はイエに閉じ込められたままで、農村の中での相互監視が行き届いていた時代であれば、一人寂しく死ぬことはないかもしれないが、その代わり、自己決定権もない。

 現代では、人々は自分の居住する場所を自由に選び、相互監視もなく、女性もイエに閉じ込められることもない。つまり、自己決定権が保障されているのである。

 亡くなってしばらく後に遺体を目にした人々は重い気持ちにもなるだろうが、本人の側に立ってみれば、それは自由が生んだ一つの結果だと信じていることだろう。

筆者は女性の立場として現代の「縁」から解き放たれた人たちの置かれた状況を好意的に受け止めているようだ。この辺り上野千鶴子氏のおひとり様のように自覚と覚悟(そして達観)を持って前向きに受け止める気概で、それはそれでいい。そういった面があるのは事実だろう。いまどき妻に両親の世話を堂々とさせるほどの力が多くの男性にあるようには思えないのだけれど。
しかし、引っかかるのは「自己決定権」という言葉。良く小泉-竹中路線の政策ポリシーとして自己責任とともに言われ、そして批判されてきた言葉だ。本当に自己による決定プロセスがあったのだろうか?自己決定なり自己責任なりを求められるのは情報の透明性が必要であり不可欠。現在30台以上で家族もなく、そして今後も独りでいざるを得ない人たちは20台の頃今のような状況を想像することもなく辿り着いてきたものと思う。そのような人たちに自己決定権を突きつけるのは酷な話なのではなかろうか。