Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

見舞い

昨晩は一日おきの父の病院見舞い。
病室に入ると丁度トイレの最中で暫く病室を出て廊下をうろうろ。先週まで入っていた二人部屋は既に患者が埋まっていた。父は特に病状変化なし。泌尿器科の主治医が病室に来たそうだ。長く10年も関わってきたので、父母としては内科に入院してから一度も見えないことに不満があったようだがやっと来てくれたという。尤もそう思っていたのは母のようで父は医師と患者の関係はドライなものだとは言っていたのだが。とまれこうやって病室まで足を運んでくれたことは嬉しく思っていたようだった。
今は病院側の都合で8人部屋に入っている。二人部屋に戻るか打診があったらしい。しかし父としては8人部屋の方が気兼ねなく過ごせるようでこのままを希望した旨話があった。二人部屋だとどうしても話をしなければならない状況になるようでそれが嫌らしい。父はあまり人付き合いは苦手に思える。その息子である自分はどうなのかと問われると同様に得意ではないということになる。しかしながら父は近所付き合いを殆どしてこなかったし、友人も極々少なく高校時代の同級生に限られている。そんな父だから同じ病室の話好きらしい関西人(とのこと)と過ごす一日は結構億劫らしい。もっとも抗がん剤やら高熱やらで体調が悪い時には、他人で無くとも話をしたくないということもあろう。
然しながら、父をはじめ高齢な人であっても人と接することを避ける傾向はあるように思う。こういうことはマスコミなどでは若者の傾向と報じられることが多いのだが、自分の考えではむしろ逆。人と接触を避けているのはむしろ歳を重ねている方で、若い人はネットやケータイなどのメディアによって相手をフィルターしているだけでより密な関係を模索しているだけだと思う。高齢者はそういったメディアを使ったフィルターに疎い分他者との接触をするか避けるかの二者択一になってしまって孤立化を選ばざるを得ないというここではないだろうか。
生きようという気持ちはひとりであり続けると持ち難い。親子、孫、友人、知人、全くの他人であっても同室となった人とであっても、どんな形であれ相手を感じることに生き続ける気持ちが芽生えるのではないか。そんなことを思った。