Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

大船渡弾丸ツアーその5

アクアで越喜来、崎浜に向かう。
昨年は道の記憶が曖昧で道路標識を見落とさないように気になって仕方無かったが、今回は未だ余裕がある。道の駅から長めの下り坂を下りて最初の右折路で曲がるとすぐに目の前に南リアス線の線路と越喜来が広がる。記憶通りだった。
しかしそこに広がっている風景は昨年のものと殆ど変わらないように見えた。左手に昨年もあった小さなスーパーがあり、右手にプレハブ作りの商店の集まりが出来ているのが目新しいものだ。しかしその他ほぼ壊滅状態の町役場跡とその眼前に広がる湾の風景はほとんど変わっていないようにみえる。陸前高田の奇跡の一本松と同様に海岸線に一本残った樹木の鳥の巣もそのまま残っていた。その脇にテトラポットがかなりの数で埋め尽くされているのも目新しいものだった。
そこから崎浜に向かう。
崎浜に入る直前小高い地点から湾全体を見渡せるポイントがある。湾の奥側にこの港にしては大きめの新造プラントらしきものが建設中だったがそれ以外は防潮堤の山側は全く変わっていないように思えた。ヤマザキデイリーストア(これは昨年も営業していた)で聞いたところによると新造プラントは水揚げ魚貝向けの製氷工場らしい。
概ね道の記憶はあったので直接弟の事故現場にアクアを走らせる。妙に自信があって迷わずにその現場の曲がり角に辿り着いた。曲がり角は山道を鋭角に右折することになるのだが、その時点で事故現場の石像、お地蔵様の姿が目に入って来た。そして驚いたことにビールの缶が供えてあった。回りの雑草も周辺に比べて整理されているようでプラスチック製の竹を模した花受けには枯れ切った花の茎が刺さっている。缶ビールの製造年月日を見ると2012/12の製造であった。枯れた花をみても今年冬の終わりに花とビールを供えてくれた人がいたようだ。モスバーガーの向かいのDIYで買った仏様用の花を供える。ビールの位置を変え、落ち葉を払うと小さなプラスチック製の指輪を発見した。子供のおもちゃの指輪ではあるが非常に不思議な物語を想像させるに充分なものだった。自分もビールを供えようと一旦崎浜まで戻ってヤマザキデイリーストアに入り缶ビールを買い込んだ。レジで会計をする際に弟が使用していたアパートの場所、その管理人さんのことを聞いてみた。震災後のご健在だと云う。弟が亡くなった際は地元の漁協の役員をし手広く事業をしていたおばあさんが健在と聞き会いに行きたく思った。
現場に戻り僕の買ったビールを2本(キリンの一番搾りとサッポロの黒生)で元々あったアサヒスーパードライの両脇に置いた。地蔵の前で道に座り、嫁さんに渡されたバランスアップ クリーム玄米ブランをゆっくりと食べた。この道のすぐ下は湿地帯で蛙の声が凄く響いていた。昨年は鬱蒼とした森だったが、今年は回りが明るくなっている。木々が伐採されたというより山側の木々が立ち枯れしているのである。
画像を幾つか撮り嫁さんに送ったり(流石にLTEは捕まえられず3G)、FBに書き込んだりした。その後ほど近い北里大学に向かう。昨年はアスファルトが波打っていて慎重に徐行して向かったのだが今年はアスファルトを剥がしている工事の最中だった。大学もそのままそこに去年のまま存在していた。エントランスの噴水は水を噴き池には金魚が泳いでいた。人の気配もあった。しかしそれは学生のそれではなかった。偶然そこを通りかかった大学の施設の管理をしている女性と話すことが出来た。大学の発表ではここは旧水産学部としての利用はしていないということは知っていたのだが、人はいるようだ。聞いたところでは薬学系、医療系で施設を使いにくる研究者が居るという。元々あった水槽は地元の漁業関係者が利用しているとのこと。大学が開校するに当り宿泊用に多くのアパート経営が始まった訳だが、学生が皆相模原に集約され、一部研究者が来るだけの施設となった。さぞやアパートは閑散としているだろうと思ったが、少なくとも今はそうではないらしい。むしろ逆でいっぱいだそうだ。復興工事の出稼ぎ労働者で一杯らしい。
その後、帰宅してから以下の記事を目にした。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20130502-OYT8T00825.htm

北里大三陸キャンパス(岩手県大船渡三陸町越喜来)が相模原キャンパス(相模原市)に本格移転される方針が、明らかになった。

 相模原で勉強を続けている海洋生命科学部の学生たちの意向などが背景にあり、キャンパスと40年近い関係を築いてきた市民からは「残念だ」との声が相次いだ。市は大学側と協議を続け、キャンパスの再開を要請していく。

 同大によると、同学部の学生と保護者を対象に、昨年春から夏に行ったアンケートで、約7割が相模原での授業継続を希望したという。遠藤尚光・事務本部長(58)は、「学生の定員割れが一番怖い。学生や職員の不安の声もあり、早く方針を出す必要があった」と苦渋の決断だったことを明かした。三陸キャンパスには現在、海洋バイオテクノロジー釜石研究所があるが、一部損壊した3棟を解体し、9月に三陸臨海教育研究センターを発足させたいという。

 市は昨年11月、市内の各団体と早期再開促進期成同盟会を設立。約2万6000人分の署名を集め、再開の機運を盛り上げてきた。市民のショックは大きい。

 キャンパス近くのコンビニ店経営、刈谷一彦さん(68)は「地元の漁業関係者が養殖について大学に相談に行ったり、卒業生が店に足を運んでくれたりしていた。地域からそうした絆が薄れていくことは大打撃だ」と話した。

 仮設商店街「浦浜サイコー商店会」で食堂を営む菊地憲行さん(55)は、「残念の一言。市は子どもたちが海について学ぶ場にするなど、今後のキャンパスに人を呼ぶことを考えてほしい」と訴えた。

現状、校舎など建物の破損は少ないようだが、道路が完全復旧していない状況では学生を呼ぶことは難しいことは理解出来る。そもそも地元の復旧が進んでいるようには見えないのだ。大きな防潮堤の陸側は更地が広々としている光景をみると致し方ないようにもみえる。三陸臨海教育研究センターというものが地元の復興に一役も二役もそして定期的にでも学生が訪れこの地を、この現状を知る機会になればと思う。