Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

横浜トリエンナーレ

10月2日、日曜日は横浜へ現代美術展を観にいく。

先日、娘とトリエンナーレの話をしていて興味があるようなので行ってみた。

3年ごとに開催のはずだが前回は2001年。昨年は会場調整がつかず延期とのことだがプロデューサ磯崎新氏の辞任(後任は川俣正氏)をはじめどたばたしてしまったようだ。前横浜市長の遺産はまだくすぶっているらしい。

それにしても暑い。暑すぎだよ、波止場沿いの道の暑いこと暑いこと。まさに想定外の暑さ。二連の倉庫を二つ使用した大規模な展示会で海に突き出しているから未だ風は来る。それも気持ちよく。でも暑い。冷房施設なんてハナから頭に無いのは致し方無し、か。

昔、暇でしょうがなかった大学時代は図書館に入り浸っていて美術手帖なんかも読んではいたけれど、現代美術展に行くのは初めて。家族も同様。あまり意味は考えず受け入れてみよう、と話して会場へ。

正直に云って、金のかかった文化祭、という風情もあった。回しピンタ?のパフォーマンスはどこかの美大でやってそうだ。横浜市が深く関わっているからかどうかは分らないがそれほど視覚的に過激な展示もなかったし、受け入れやすい現代美術がそこにあった。

無論、「これは、ここは!一体なんですか?」と係員に問い詰めているおばあちゃんらも見かけた。

でも雑多なこの雰囲気は概ね意味付けを深く考えなければ面白いと、思えた。

観ているうちに、する側、観る側という立場を壊そうとしているのかと思えた。そして観る側をも含めた「場」を作ろうとしている、と。日常からの飛躍とはそういうことかな。

そこで設置されたリクライニングチェアに腰掛けビールを飲みながら考えた。そういった立場をフラットにすることで、する側の立場は曖昧になるのだがその場合どうやって「食っていく」のだろう。価値をどう付けるのだろうか。NPO設立であったり、キャラを確立できればグッズ販売、場合によっては広告媒体に載ることも可能か。でもパトロンはちゃんとつくのだろうか。曖昧な、場合によっては観るものと一体化しないと完成しない美術に価値を見出してくれるのだろうか。

特にアジアの芸術家たちは厳しいんじゃないだろうか、と考えながら観ていた。

それと…。

テクノロジーを積極的に取り入れるのは良いんだけど、なんとなくパソコン、マックでも使えないとゲージツ出来ない、ような気分にもさせる部分あり。テクノロジーを取り入れることで表現の可能性は狭められていることにもっと自覚して欲しいと思ったり。

1800円が高いか安いか。ぼくは楽しめた。娘は一つ一つじっくり観すぎて迷子になるぐらい見入っていた。妻は「分らん」。3時間では駆け足だったので、もう一回行こうと話している。

それから浜風に撫でられながら飲むビールは最高。視線の先にはベイブリッジやみなと未来の夜景。金曜日は21時までとのことで寒くなるまでは夜行くといいです。