椅子の修理
先日仕事場で「人生100年時代のファイナンシャルプランニング」なる講座に参加した。90分弱で昨年話題になった老後資金2000万円不足問題を皮切りに何歳で幾ら必要かを細かく説明された。気持ちはどんよりと落ち込んだ。確定拠出年金、DCは分割で貰うとその度に税金を徴取されてしまう、初回で全額受け取っても1990万までは控除される(そんなに貰えるとは到底思えない)が、一遍で貰うと運用に失敗する人が多いとかテクニカルなことを立て板に水の調子で話された。
げんなりである。
前日まで次のクルマはどうしよう、家の改修も何時するかなど色々考えていた能天気な頭に飛び切り冷えた水をぶっ掛けられた気持ちだった。
お金の使い方をこの先慎重に考えねばならない、のは承知していたはずだった。
年末ダイニングテーブルの椅子の革が破れていたので修理を相談していた。結構ごつい木製の椅子はテーブルと4脚の椅子で30万程だったと記憶している。店頭で傷有りでそれでも格安になっていたものだ。革張りの座面でステッチから破れてきている。既に23、4年使用してきたものだ。破れても仕方ない。
修理は本革張りだと4脚分の革を入手するのに椅子本体を購入するくらいの値段だという。合皮で済ますことにした。それでも結構な値段だった。生地の入手が出来たという事でこの週末椅子を持ち込む予定だ。
然し一方このテーブルに4脚が必要なのかも微妙な気がしている。子供達は週末は殆ど家に居ないことが増えた。4人で食事する機会が減った。この先どれほどつかうのだろうか、と。
それでも僕と妻はこのテーブルで食事をし続けるだろう。一方修繕したい個所は他にも色々ある。畳の貼り替えは急務だろう。カーペットも良く歩かれる個所はすり減って来ている。何処まで修繕して使っていくのか。
そして何より気になるのはこの先介護がどのくらい続くのか。
今の施設に何時まで居られるのか。施設を出るとなってその先はどこになるのか。
そういった費用の話は先のFP相談会では全くなかった。
年末、新年、そして
年末は暦通り27日まで働いた。
体調が余り良くなくどうなることかと思ったが何とか予定通り休みまで辿り着いた。やれやれだ。
大掃除だが、それらしいことは障子の貼り替えぐらいしかしなかった。付け加えると嫁さんの年賀状作りの手伝いと、深夜の投函か。プリンターを換えて、インクジェット用ハガキの用紙セットが50枚ほどと減ってしまったので様子を見ながらの印刷で手間取った。障子の貼り替えは2年前破れた一枚の貼り替えだけをした以降破れなかったのでそのまま。それを今回は2枚一緒に貼り替えた。サッシ廻りの掃除もしてその周辺だけは綺麗に掃除した。
障子紙が乾くのを待つ間に駅前の家具屋さんに行ってダイニングテーブルの椅子の革の貼り替えの相談をしに行った。前々からそこにあるのは知っていたが入ったのは初めて。工房になっている店内は手作り感満載だった。椅子は家族分4脚ある。しかし本革で張り替えるとかなり値が張るらしい。なんでも革を大きな面積分確保するのに相当かかるという。代わりに合皮を勧められた。ピンキリだが本革に負けず劣らず良いとのこと。年明けに嫁さんと一緒に来て素材をみることとした。
大晦日は母の施設に行ってから海岸線をジョギング。ここ数日すっかりさぼっていたので帳尻合わせという意味合いが強かった。然し31日は風強く冷えていて厳しかった。パーカーで頭をすっぽりと被りジョギング、ウォーキングをした。20㎞程だが、脚が張ってしょうがなかった。
年が明け、元日は嫁さんの実家へ。僕は朝に家族の新年の挨拶を済ませて雑煮を食べて母の施設に行った。ここまで毎日施設を訪れているが、デイサービスは休みは元日のみ。施設の利用者には休みは無し。ご苦労様なことだ。
元日の夕食時トラブルがあった。下の娘が長女とちょっとしたいざこざがあり義父宅に行かないと言い出した。言い出したら聞かないのでそのまま義父宅に3人で出かけ、新年の挨拶をしていた。すると真っ暗になった午後6時過ぎ泣きながら娘がやって来たのだ。義父へのお土産を持って来たのである。然しそのまま帰るという。情緒不安定という感じ。説得は聞かなそうなので嫁さんと車で送って行くことにした。彼女にも色々あることは察しがついていたのであまり詮索はせず、自宅に戻り食事と風呂の準備をして娘を残して義父宅に戻った。その後は何ともぎこちない新年会であった。まぁ、仕方ない。こんな年もあるということだ。
2日は昼間は自宅。嫁さんは箱根駅伝の応援に海岸線に出て行った。夜、中学高校時代の同級生と新年会。然しレモン酎ハイを一杯だけ飲むに留めた。3日は大幅寝坊で正午前に起きる。慌てて母の施設まで行くも食事には間に合わず。
4日、初詣に嫁さんと自転車で寒川神社まで行く。大渋滞の中すいすい自転車で行くのは気持ちいい。行きは天気は晴れ渡り気持ちよかったのだが急激に雲が広がり、干してきた洗濯物、布団が気になって仕方なかった。
5日、昼は母の施設に行く。昼食前に行くが機嫌が悪く、食事の介助の前段階で拒否されて近づけず。僕が横に座ることも気に入らない様子でこの日は全く役立たず。敗北感だけが残った。
帰宅して嫁さんが所望している電気圧力鍋を物色しに外出。
やはり施設に行くのは体力気力、消耗すると実感する。だからといって行かないわけにもいかず、なんとか耐えるしかない。今自分にとって最大の危惧は母が施設に居られなくなることだからだ。入院していた頃、施設から退所を余儀なくされ行先なく入院していた人を多く見て来たからだ。
湘南ライナー
朝の出勤時に湘南ライナーを利用している。
セット券を購入している。平日のみ運行しているので、一回当たり520円のライナー券が毎月大よそ20日前後あるので10000円となる。結構痛いが朝のラッシュを回避しストレス低減を思えば外せないものになった。
ライナーの乗車率は時間帯によってバラバラのようだ。6時台の7時近くのライナーだけは月初めの平日朝抽選券が配布され、場合によっては購入出来ない事もある。大昔は月初め平日の前日深夜から待つ人も見かけたほどだ。
そうかと思えば自分が利用していた10号車はセット券が売り切れることは殆どなく余裕で購入が出来、シートも二列に一人で乗車出来るのが普通だった。リクライニングシートを倒すことも可能だった。
それが11月末のダイヤ改正で大きな変化があった。自分が利用していた10号車は8号車に吸収され、出発時刻が10号車より早くなった。乗車率が低かったのは確かだし、車両が古いタイプだったのも確かだが理由はそれだけではないようだ。相鉄線のJR乗り入れや他の影響があるようだ。一説にはJRは小田原から通勤時間帯に特急を導入する可能性があり、その布石との説もある。
統合された8号車はもともとダブルデッカーの二階建て車両である。自分はあの天井が低いタイプは苦手。そしてボックス席だけの形状も避けたかった。然しそれでも乗るしかない。
今のところ出発時間はそれまでより早くなっているにも関わらず、到着時刻が遅くなることが殆どなのが不満である。恐らく経路が今までとは違うのではないかと思う。時刻通り動いて欲しいものだ。
あれから、2年の続き
入院病棟は2階にある。母の病室は4人全員外科の高齢の女性患者。隣は男性用病室のようだが、その隣は女性の病室だが内科の患者もいたように思う。夕食の時、冷温配膳車まで母の食事を取りに行くとき、名札と食事の内容が書いてあるので大体わかる。
母は初日の夕飯は既に時間が過ぎていたので何も食べていなかった。次の日は夕方自転車で向かった。初日に通った道だ。市街地から続く住宅街だが以前は農地が広がっていた郊外で今は大きな邸宅が多く街灯が少ない。闇の中を自転車で通う事が毎日の日課になった。
二日目の夕方、病院に着き守衛待ち受けの受付に見舞いの記録を書いて2階に上がったのは午後6時を少し過ぎた頃だった。夕食は午後6時、
配膳されて食べ始めた頃だと思った。病室に行くと母は布団を頭まで被っていた。食事は既に下げ膳されていた。食事をする意思がないということらしい。普通の病床では食事の介助はされないということらしい。廊下には未だ配膳車があったので慌ててそこまで行って母の食事を取り戻した。何とかして食事をしてもらわねば、その一心だった。然し母との意思疎通は細い細いものだった。食事ののったトレイを何処に置くかすらままならない。デスクサイドの小さな引出しテーブルに乗せ、刻まれた食事を口に届けなければならないのに母は布団を被ったまま。どうしたらいいのか。暫く座り込むことしか出来なかった。
あれから、2年
2年前の10月30日、16時頃携帯に病院から連絡があった。
それまでにも時折夕方にiPhoneがなることはあった。大抵電話には出ない方が多い自分だが、母が入院している病院からは別である。頭のどこかでまた患者さんと揉め事を起こして個室に移動になるのかな、という思いが頭の中を過ぎった。確かそんなに寒くはなっていなかったと思う。普通にジョギングしていたはずだ。休職して数か月、外に出るのはジョギングか、病院に見舞いに行くことだけになっていた。病院から良い知らせはほぼ無い。そうわかっているのだが、改めて心がざわめく。
何時も連絡をくれるフロアのリーダーさんだった。母が病棟で転倒し足を骨折したらしい。救急車で関連する整形外科に緊急入院するのでそちらに行って欲しいとのことだった。
あぁ、ついに来たか、というのが第一印象。老人の転倒、大腿骨骨折、寝たきり介護が見事に見通せた。
ジョギングは途中で切り上げ、帰路に着く。帰ると慌ててシャワーを浴び着替える。洗濯物を仕舞い、嫁さんにメッセージを送って自転車に乗る。救急病院は一二度しか言ったことのない場所だが道に迷わずほぼほぼ最短距離で着くことが出来た。途中は勘で走る道も多かったのに、その後もその道は忘れずにずっと通う事になった。
取り敢えず受付で救急外来の場所を聞いて行く。中から獣のような声がしている。恐らくこれが母の叫び声だろう。耳を覆いたくなる音だった。そして同時にこれからの介護がまた大変になるなと覚悟させられた音だった。
この日は運悪く整復出来る整形外科が帰宅した後で、電話で呼び戻しているところだと診察室から出てきたインターンらしき若い医者から聞いた。戻って来た医者も話の通じない母を前に困惑するだろう。いや、もうこんな患者には慣れっこだろうと頭の中がぐるぐると廻った。
30分ほどして30代後半の医師と思しき人が診察室に入り、暫くしてまた悲鳴が、叫び声が響き渡った。しばらくして母を載せた搬送ベッドが出てきた。うわごとのように助けて助けてと叫ぶ母。自分は横に着き左手を握ろうにも振りほどかせられる。母は右大腿骨と右手首を粉砕骨折していたという。運悪いことに手術は予約がいっぱいで11日先が最短で手術可能だということだった。それまでどうするんですと問うとギブスで固定して入院することということだった。元々入院していたのでそれが場所が変わるだけだが、いよいよもって切羽詰まって来たなという思いでいっぱいだった。
この後2階にある外科病棟へ移動し4人部屋に入った。同じような高齢者の女性だったが認知症ではないようだ。
患部を固定するという事で、骨折した右大腿骨は足首にマジックテープでロープを縛り付け、ベッドの足元に滑車を付け、重り5㎏で引っ張るという何とも原始的な方法で固定した。そんなことは分からない母はそれを嫌がって仕方がなかったが21時近くになって仕舞っていたので逃げるように病室を後にした。
iPad、ゲットしちゃった
先週末、無事台風が過ぎ去ったことを理由にしてiPadをヤフオクでゲットしてしまった。
全くもって合理的ではないことは百も承知なのだが、今更、それもiPad Pro 10.5である。
数年前確か初代のiPad Airを発表直後にヤマダ電機で購入した。その際もかなり勢いで買ってしまったのである。丁度販売ヘルプで来ていたYahoo!の営業の口車(無料期間だけで良いから使ってみて!)に乗せられYahoo!の有料会員になってしまったのがその証左。iPad自体に満足感は持ったもののセルラーモデルを選ばなかったことを強く後悔。その年の年末、未だ外出することが出来た母と墓参りに行った帰りに、買取に出してしまった。その後もタブレット(その頃はスレートという表現もあったな)には興味があり、ソニーのXperia Tablet type P、Xperia Tablet Z(SO-03E)に現在も所有するXperia Z4 Tablet(SOT31)を使ってきた。皆それぞれ良い点があり、思い出深かったのだが、ちょっと最近iPadがまたぞろ気に成り出したのである。
しかし、である。であれば10月末にもiPadを含む新製品が予想される中手は出さない方が賢明であることは自明であるのだが。台風の強風に吹かれて窓際辺りのアルミサッシの隙間から飛沫が上がるのをぞうきんで拭きながら、何処からかふつふつと物欲が重い首をもたげたのである。現行のソリッドなiPad Proでない、初代から続く角が丸まったiPadを手にいれておきたいな、と。
現行のiPad/iPad Airでも良かった筈だが、微妙にどっちかというと高性能なやつはどれかと考え、画面のリフレッシュレートが120Hzの方が良いに決まってるという思い込みで、既にこの時点で手に入れることは確定していたのである。あぁ、やっちまった。
見舞い 7/2
この日は入院証明書の受け取り予定の日だった。嫁さんも同行してくれるというので一緒に出掛けた。