Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

日本語壊滅?

内田先生のブログ、「内田樹の研究室」で日本語壊滅というエントリを読んだ。こちらには以前大学教育の現状についての恐るべき実態(補講で中学、高校教育のやり直しをしている)が書かれていたが、今度は「外国人留学生と同等か、それ以下の日本語力」(この表現は引用されている産経新聞から)の日本人学生が増えているという。
携帯メールによる語彙の変化について書かれている。

たしかに携帯メールは複雑で論理的な情報を送信するには不向きなツールである。
論理の流れは感情の流れより「速い」からである。
親指ぴこぴこではロジックの速度をカバーできない。
文房具の物理的限界が思考の自由を損なうということはありうる。
携帯メールの入力作業というのは、私には「書いてから1秒経たないと文字が見えてこない鉛筆」で文字を書いているようなもたつき感をもたらす。

これはゴールデンウィーク中24時間携帯メールで連絡を受けていた立場だったので非常に身に沁みた。はじめは出先から返事を書いて返信していたのだが、どうしても簡略化した文章にならざるを得ない。それなりに誤解の無いよう文章を短くしようと努力しているのだが、繰り返し繰り返し届くメールにその努力は追いつかず大胆に、そして相手がどう受け取るかを無しにして機械的に単語の列を返答するようになってしまった。やはりこのような応答は不味いと思い、PCから(実際はGMailで様々な場所から)きちんとキーボードを叩いて回答するようにした。このためレスポンスを早くするため外出は極端に難しくなり、ほとんど引き篭もりになってしまったが。

このような「どんくさい」ツールは複文以上の論理階層をもつ文章を書くことには適さない。
ということは、携帯メールを主要なコミュニケーションツールとする人々はいずれ「複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない」人間になる可能性があるということである。

こどもには出来る限りメールをするのはPCで、といっている。携帯でメールをするとお金がかかるというのもあるが^^;)、何しろ文章が書けなくなる。短い携帯専用の文章というか単語の列となってしまうのだ。それでもはじめは通常の作文と、携帯用の文体?は切り替えられるのだが、その使用頻度の高い携帯用文体に浸食されてしまう。
もっと根本的な単語、漢字についても同様で、漢字検定をはじめ各種検定試験に学校では熱心に取り組んでいる。娘の学校で授業の中で漢字検定を全員受けるということに違和感を感じたのだが、現実の授業、作文、クラスの文集はその必要性を強く感じさせるものだった。クラス内の漢字テストでも何でも殆ど書けない生徒がかなり多く居る。テレビ番組での漢字熟語変読は半分演出とは思うものの日常生活の中で正しく(せめて学年に応じた)読み書きの出来ない生徒の割合は増えているのだろう。朝の授業前本読みの時間が15分あるのだが、平気で漫画を持ってくる生徒もいるのだ。
犯罪を犯すとなぜか多くの場合学生時代の卒業文集がクローズアップされるが、遠くない将来とんでもなく稚拙な文章が登場するだろう。
お嬢の学校では1年生の間は電子辞書は使用禁止である。英和、漢和、古文共に少なくとも授業では使用出来ない。もっとも入学書類の中に電子辞書の特別バーゲンのチラシは入れているのだが。