Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

日誌

引越しを昨日終えたわけだが、その中で昔の業務日誌が出てきた。特に2002年のものは当時付き合いのあったIT系の商社のB4サイズの大型ノートで立派なものだった。ここのノートは非常に気に入ってノートそれ自体にも愛着が沸いていた。
2002年は丁度仕事に先が見えず、参画したプロジェクト(その年から中途で参画することになった)がめちゃくちゃな状態で非常に悩んだ年だった。結果その年の9月に社内の別の部署に希望をして無事異動することとなった。しかしそれまで半年以上の間は毎日先の見えない中をまさにデスマーチ宜しくバラバラとした足取りで行進しているさまが日誌から思い起こされた。
それは典型的な失敗プロジェクトだった。はじめからメンバー(それもリーダー格、マネージャクラス)の入れ替わりが激しくターゲット(機能、性能の目標値)がぶれて、スケジュール遅延が繰り返し起こり、遅延をリカバリーすると言う名目で営業サイドから新たな仕様が追加されてしまい、スケジュールを引き直してを繰り返すというプロジェクトマネジメントなんて言葉は何処吹く風、な酷いプロジェクトだった。
そもそもなんであれほどメンバーの入れ替えが起きていたのか不思議でならない。仕事場ではそれなりに仲良さそうな雰囲気だったのだがポツリポツリとメンバーが辞めて他に異動してしまう。また営業サイドの声を渋々でも受けてしまい仕様が膨れて行くものだから必要なリソースも増え、ついには他のプロジェクトを一旦停止してリソースをかき集めようというところまでいった。このときは会議で各プロジェクト同志の喧々諤々、最後には涙ながらの訴えまで飛び出してプロジェクトはプロジェクトで責任を取るという至極真っ当な結論にはなったが、今考えてもぞっとする会議だった。そんなこともあり、元々兼務で参画していたぼくは成り行き上100%専任とされてしまった。当時2001年ごろから業務の手詰り感、新しいことをしたいと考え社内異動を模索し始めた中での専任という業務命令に抗うこともせず黙々仕事をしていた。しかし不満は内に籠もりがちで当時の日誌の端々にそれを読み取ることが出来る。
世の中は2002 Korea-Japan World cupに沸いていた頃だ。横浜国際競技場(当時はまだ日産スタジアムとnaming
rightは売られていなかった)にサウジアラビアアイルランドと渋いカードを観にいった前後は体調を崩して心身ともに疲れていた時期だったことを思い出す。
当時を思い出し身が引き締まる思いがする。