Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

「女王の教室」

以下、あるブログにコメントしようとして文字数制限で書き込めなかったモノ。
#コメントに文字数制限あるならあるって書いておいて欲しいな。
#昨今トラックバック攻撃なるものもあるようで警戒しているのだろうけれど。

あのう以下は誤解の無いようにお願いします。老婆心ながら。

主人公の言っていること(台詞、行動で示すものも含む)とドラマとして、或いは作品として言っていることが異なる場合もあるということはありますよね。

この手の(と一括りにしてしまうと作り手は嫌かもしれません)挑発的な作品を表現しようとしたときドラマツルギーとして、主人公のような日常では巧妙に隠蔽された、しかし拭いがたい本音を突く存在、キャラクターを用意することは多いと思うのです。そしてその存在の発言、行動に短絡的に反応してしまうのは、私としては「誤読」だと感じています。

もっとしっかりと行間を読めないのだろうか、と。

「主人公の発言、行動」 ノットイコール 「作品の言わんとすること」

ということです。

ましてや、存在そのものを否定するような「打ち切り」運動なぞ、もってのほか。この手の刺激を許容できないとなると、弱者、子どもを出汁にして存在自体を否定したがる傾向が強く、残念に思います。そういった行為が何かの解決になると思っているのでしょうか。

このドラマ自体はべたな分りやすい演出(これ自体は好き嫌いが出るのは仕方ない)も多く旨くエンターテイメント性(あるいは過激さ?)をも持たせて、また子どもたちの演技とあいまって良い出来だと思っています。

因みに現場にあんな主人公がいるかといわれれば否です。少なくともあんな綺麗な(以下自粛、教職で40前ならもっと疲れてる)。けれど個々の行動に強弱の違いさえあれ、行われているのは別段珍しいことではないと思います。

ここでも念押ししますが、それ(主人公の発言、行動すべて)を是としているのではありませんのでお間違え無く。

いうまでもなく「女王の教室」に対する否定的批判へのコメントです。

ひとつひとつの台詞に、行動に脊髄反射するひとがとても多いと感じています。上にも書きましたが実際の学級運営であんなことは出来ないのは当たり前です。何しろ様々な子どもがいます。療育が必要な子どもをドラマのような状況にしても全くの無駄です。台詞に論理的穴があるのも当然です。最近はそういった「細かな」ことが気になりすぎて(気を遣いすぎて)本質的なことを言うこと、考えることがし難くなっているのではないでしょうか。

ドラマはあと2回。伏線ばかり張りすぎて結末までまとめられるのか心配になりますが、楽しみです。