Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

さて、伝説巨神イデオン、なのです。

1980年なんていう大昔の話なので今更感はあるのですが、色褪せない。数年前にVHSのテープ版を購入してあるのでたまに見返すことがあるのですが、見終わるとどっと疲れるとともに全体像はいびつながらも改めて素晴らしい作品と思います。

冨野喜幸監督にとってガンダムに続くこの作品は、ガンダムは興行的成功はしなかったものの当時も一定の評価は得て作家性を出すことに自信を持った、というか確信犯的暴走をして製作したものでしょう。

また湖川友謙をはじめとしたスタッフたちからもまだ未成熟だったアニメ産業黎明期の熱気、野心、意地?が注ぎ込まれ単に過激な演出にとどまらない独特の世界を繰り広げています。

どうしてもセンセーショナルなシーンや不可解と解釈されがちなエンディングが話題に上り勝ちなイデオンですが、前作ガンダムの世界が「神は細部に宿る」とばかりにディテールにこだわり世界観を作り上げていったのに対し、イデオンでは核心部分を作り上げその周りに哲学的、思想的、宗教的肉付けをしていき世界を作っていると思います。

人と人の理解、共感としてガンダムニュータイプという概念を持ってきたと思うのですが、イデオンでは人と人とがお互いを認められない、理解し得ない場合がありえる、そのときどうしたら良いのであろうか、どうなってしまうのかということを描いています。

在る方のブログでメインキャラであるハルルとカララの姉妹について、前者は女性(にょせい)を、後者は母性を象徴していると看破されていました。素晴らしいです。

#公開当時、人々の意思の集合体であるイデは女性である、という説は多かった。

姉であるハルルは軍人である父から男性として育てられ、また自分も男性としてあるいはそれ以上の者になろうと実力をつけてきた人。そのためハルルは恋する相手を含めて全ての男性は越えねばならない相手となってしまっています。彼女の奥深く押し隠され続けた女性はそれ故精鋭化され叶わぬ思いを求め続けています。

一方のカララは同じ姉妹でありながらも奔放な行動をとり、それが不幸な異星人との遭遇を引き起こしてしまいます。勝気で好奇心が強いだけだったカララはしかしその中で徐々に全てを受容するようになります。これは単に彼女の母性が目覚めたという部分だけではなく、彼女が異星人たちの中で生きるために必要だったというところがミソです。生き続けるため越えなければならないもの…。そう彼女は異星人たちと生きることを望まざるを得なかったし、望んだのです。

全てを許し給う聖母(事実救世主メシアを身篭る)のようなカララ。ハルルにとって同じ姉妹としてだけでなくとも許されざるものだったのでしょう。姉、ハルルが妹、カララの顔面に銃弾を打ち込んだとき言い様のない虚しさを感じたに違いありません。それで一体自分は何を得たのか、と。だからこそ彼女はその理由の根源を作った父、ドバに会いに行ったのでしょう。

だが、やはり父はハルルに女性になること、戻ることを許さなかった。重い宿命を降ろすことを許さなかった。もう誰もハルルを助けることは出来ない。出来ることは異星人を滅ぼすことだけ。

一方、父、ドバは「業」ということばを何回か口にします。公開当時、このことは良く分かりませんでした。当時の批評のなかにも「結局親子喧嘩、姉妹喧嘩で宇宙が消えちゃうのかよ」というものがありました。同意は出来ませんでしたが、確かにそのように矮小化された原因による悲劇という見方もあるかと思っていました。

しかし、今は違います。「業」というものの怖さ、愚かさが時間を経るごとに実際に感じられるようにまりました。解っていながらもそれに突き進まざるを得ない人々。作者(冨野喜幸)は業を乗り越えろといっているんでしょう。しかしそんなこと出来るんだろうか?

例えば少年パイロット?であるデクはつかの間の休息に配給食を美味しそうに食べます。しかしその殺那、彼は「なぜ食ってるんだろう、いつ死ぬかもしれないのに」とつぶやきます。どんな情況でも美味しそうに食事をする、これこそが生きる力の源でしょう。これが彼を明日まで生かすことになります。しかし業を乗り越えるとは究極的には生への執着を捨てろといっているように思えます。そんなことが出来るのだろうか、と。

この辺りはとても難しく、危険な思想とも結びつきかねない話で事実80年代後半は新興宗教団体の終末思想とくっついて解釈されたこともありました。

丁度TV放映、映画公開は中学、高校時代に重なります。世の中のことわかったような気分で自惚れていた自分にはとても衝撃的でした。いまとなっては同時代にあったことを幸福にさえ思えます。

もしこれを見て興味が沸いたら一度観てください。後悔はさせませんよ。