Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

閉ざされてはいない、が…

以下のエントリーを読んで感じたことを書いてみる。
裕福でないと大学にいけないという幻想 - odz buffer
二人の娘を持つ親として学校に行く機会、そして高校受験を経験し、またぼく自身学生の頃大学院は育英会(年がばれるね)の一種奨学金を受けてきた感想だけど、今のほうが、いやこれからのほうが「キツイ」なと感じる。
もっともそう言ってばかりで、自らの未来を、可能性を易々と手放してしまう、それも時代や社会に原因を押し付けたがる風潮に対してのアンチテーゼではあるのかもしれないが。
ぼくが育英会奨学金を受けたのは、親の経済的(要するに手を回せない)理由ではなく個人的に自立すべき時期だと思ったが故だが、当時はバブルの残り香も漂い給付を受けることが出来た。他を探せば企業の奨学生制度が数多ありわざわざ返還するなんてということを言う学生も多かったからだ。
一方ここ数年の小学校、中学校をみると公立学校ではあっても成績の分布と親の収入に少なからず相関関係を感じてしまう。このことを意識しだしたのは友人の感想からだった。彼は獣医師として市内の学校全体を周っている。獣医師会から派遣され、学校で飼育されている動物の相談、病気治療をして生徒たちの放課後に付き合っている。獣医師会では当番で何年かごとに割り振られるそうなのだが、同じ市内であっても学校によって生徒の質、服装が全く異なり、その傾向がここ5年ほどよりはっきりとしてきたと言う。彼いわくダウンタウン化した学校が顕著だと言うのだ。皆がみな小奇麗なブランドロゴを配した服を着ている学校が増えたかというのではなく、ある種皆同じような服を着古した服装が多い学校が固定化してきたのだという。これはユニクロなど安価大量に販売する店の出店とも関係あるのだろうが、それだけではなく生徒の受け答え、動物への応対にも変化があるというのだ。この点は話が反れるので省略する。
公立の高校受験に関しても違いは大きい。市内にある県立高校への進学が中学校によってかなり異なってきた。神奈川県の場合、一部私立を除けば公立高校の上位、公立高校の下位、そしてそれでも難しい場合周辺の私立高校という選択が多かった。しかし昨今私立高校が特待生などで大学受験の成果を伸ばし、結果公立高校下位の多くが学力、学費の両面から成績下位(というよりはっきり言えば学習困難)の生徒に選択されるようになってきたのだ。一方成績上位の生徒は市内の公立高校上位ではなく市外の公私立有力校に進学することが多く、また実際問題それらの有力校は通常の県下統一試験ではなく独自問題(難易は問うまい)となっている。この対策とそれらを含めた受験に必要な情報はどれ程の親が把握していただろう?いや学校ごとのデータについては教師もどれ程把握できていただろうか疑問なほど複雑で大量の情報なのだ。要するに受験産業に情報を整理してもらいそのためには費用が発生してしまうと言うことだ。これは大学受験ではもっと顕著だろう。上智大学に受かるための英語対策など、限られた時間の中で結果を出すための方策には費用が発生してしまうのだ。
だからといって可能性はない、将来は既に閉じられていると言うつもりはない。真の実力、学力を持つものはそれらの情報偏移に対しても、尚苦もなく乗り越えていくことだろう。曲りなりにも自由主義の時代、自ら進んで希望を捨てる必要など何もない、はずだ。しかしながら一方マクロに見れば既に多くの場面で階層の固定化が、兆しと言う表現を越えているように感じる。尤もはじめに書いたようにこのような傾向に対し安易にわが身を当てはめ納得する向きに対して反発力を求める、という意図はわかる。もっと言えば格差社会なるバズワードを鵜呑みにして、それに乗っかってしまう社会に対して反発をしているのだろう。
#反発できないのは、内省的な日本人だからか、反発できないほど疲弊てしまったからか…