Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

教育のこと

昨日、「女王の教室」のことについて書いた。

家に帰って駒大苫小牧の暴力事件を知った。この件でいくつかブログ、日記をみるとかなりの人が暴力、体罰なんか部活じゃ日常茶飯事、大したこと無いと思うけど時代が変わったんだねー、という論調と感じた。

これって高野連やら学校関係者、「部活」に携わる人々のかなりの部分でシンパシーを感じるんじゃないかな。

体罰、指導、愛の鞭、どんな表現でも良いんだけど無くならないね、これじゃ。というか本当に体罰、暴力は無くそうというコンセンサスは出来てるんだろうか。

自分の学生時代、小学校、中学校、高校と体罰は普通だった。そしてやっぱり?野球関係では多かったと記憶している。自分はサッカー部でグラウンドをほぼ半分野球と分け合って使用していたが、野球部は練習中でもミスをすると平手打ちはしょっちゅうだった。大きなミスをすると部員は監督から呼ばれる。それまで各自声を出していたほかの部員がその瞬間手を止める。静寂が突然やってくるのだ。隣で練習しているぼくらもそれで次に何が起こるのかを悟る。来たな、と。ぼそぼそと話す声の後パチンッという乾いた音、そしてありがとうございましたっ、という声。そして赤く腫れた頬のまま元の場所に戻りなにもなかったように練習が再開するのだ。特に自分が叩かれたわけではないがなんともいえない嫌な気分になったものだ。

授業中にも結構あった。平手打ちは受けるほうにもコツがある。頬できっちり受けその殺那力を逃すように首を振らないといけない。下手に逃げたりすると大変だ。逃げてかするように当たるととても痛いし、つめが引っかかると傷にもなってしまう。鼓膜が破れるのは相手が下手な場合が殆どかもしれないが、下手に逃げて耳に当たる場合もある。また首を振りすぎても、それを見逃さず「もう一回っ」なんていわれる場合もあるのだ。

だから?体罰は特に事件というほど特殊なことではなかったが、嫌いだし無くなってほしいと思う。これでも数回は叩かれた記憶があるが、ある程度それには納得はしたものの良い気持ちはしないし、嫌な記憶だけが残っている。それが体罰の効果なのだろうが、理由や、それによって反省や先生の気持ち、愛?なんて考えなかった。寧ろ叩かれたことで、したことの罰は済んだ、みそぎは終わったという感じだった。また同じことをすると叩かれるとは思ったが結局反省もしなかったようだ。

本当に体罰はなくそうと高野連は考えているんだろうか。恐らく野球の指導関係に当たっているひとの殆どは過去に体罰を受けた経験があるはずだ。そしてそれを甘んじて受け入れてきたと思う。練習方法の一環として体罰があると考えているのではないだろうか。もしそうならそれに変わる新たなコーチングが必要になるんではないだろうか。

学校、授業の中での体罰も同様の指導力の稚拙さ故、だと考えてはいるのだが、最近はそれだけではないと感じている。体罰(言葉の暴力というものもあるがここでは考えない)を無くせ、というだけでは終わらない問題があると感じている。このあたり「女王の教室」に関係するのだが、またの機会に書くことにしよう。