Killing Time 2nd

備忘録、日々の徒然想いを残します。

曇り、早くも雨粒

今日でひとつ節目になる一日。
直接自分が発表するわけではないけれど、今後の仕事の成り行きを左右しかねないものなので大切なのだ。
毎回拝読することを楽しみにしている内田先生のブログにとても面白いことが書いてあった。
学院標語と結婚の条件 (内田樹の研究室)
前半の新入生へのメッセージも全く同感なのだが、いま親となった自分にとってはこちらの方が身に沁みる。AERAから“婚活”について取材された際に話したことだそうだ。

つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。

これは逆説的な意味であり、適応性といっても良いかもしれない。詳しくは、引用が長くなって恐縮だが先生の言葉を見よう。

どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。

卓見だと思う。同じようなことをぼくも子どもたちに話すことがあるが、こんなに理路整然とストンと落ちるように頭に入ってくることはない。どうしてもいらない自分の経験だとか付け足しをしたくなってグダグダになってしまうもの。
特に最後の「誰とでも結婚できる」部分はなかなかいえない。ぼくと嫁さんの背中をみていてくれというしかない。しかしこれこそキチンと伝えるべきことだと父母の後ろ姿をみて思う今日この頃。