俺に似たひと
本を読んだ。
一冊シッカリと表紙から後書き、奥付、広告まで目を皿のようにして読んだのはいつ以来だろう。
臨床心理士の方から勧められた数本の中の一冊がこれ。他の推薦本も順次読んでいこうと思う。チラ見して、まずは読み易そうなこの本を手にした次第。
著者は内田樹氏らとともに言論活動されているのは知っていた。年齢は自分よりもかなり上の世代である。その言葉にはシンパシーを感じてはいたが、一方納得しかねるものもあった。然し文体が久しぶりの読書には好適だったように思う。
いつごろか著名人の方々が介護をしていること、その経験を包み隠さずメディアで話すようになった。昨今話題の都知事もその介護経験談*1を上梓し、それをきっかけのようにして都知事選挙、国政選挙に打って出た経緯があった*2。これらある種一ジャンルと化したかに思える介護経験談だが、この本は“俺”という一人称に語らせることで事実を淡々と記することを目指している。
一年半ほどの、自分にとっては羨ましいほど短い、介護経験だが、その時々に感じる不安や感想は同意できるものが多かったように思う。
“せん妄”の話が繰り返し出てくる。自分の母も自宅の二階に若い男が住んでいるという訴えを繰り返していた。実家の周り一番の古株のご近所住民が母に悪さをしている話が絶えなかった。しかし母の場合は幻視は必ずしもなく、被害妄想の故だったのだろうと思い至った。認知機能の低下の中、独りの生活で得も言われぬ不安から被害妄想を膨らましていったのだと思う。
“疾病利得”という言葉も印象的。内田樹氏は日米関係の政治的な矛盾を表現した、いささかイデオロギー臭のする言葉として発しているが、その意味は介護においてはいろいろなことを想起させる。
最終盤、俺の父は屍となって帰還する。その際に、
結局、父親を救ったのは、せん妄と、死であった。
という一文で終わる。昨今、認知症にも生きる上で意味があるという専門家の解説には困惑してきた。いわく癌患者など終末期の恐怖、痛みへの自己防衛の一つだということらしい。せん妄を起こし、現実世界から解離して自らの精神崩壊に抗う、という言葉には当惑してしまう。そうまでして守らねばいられない“老い”とはなんなのか、それが生きることの最期に必要なことなのかと。